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「何かね、わしがどうしたといふんかね」
「玄関の手入れをどうしようかと云ふのですよ」
その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つているところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
「さあ、くはしいことは判りませんね」
六
彼は今泉からドイツ兵の捕虜と聞いたとき、かつて若い単純な頭にはげしい印象を灼やきつけられた、ロシア兵達の驚くべき腕の長さ、のろい大まかな身振り、何とも解しがたい瞬時に大きく開かれたり又縮まつたりする碧い眼や唇の動き、――それらは今徳次の目の前に突然鮮明な記憶をよび起したのである。
小谷は髯のことなんかはよく覚えていなかつたので、曖昧に、気のない返事をした。道平は、さつきは盛子に紅くなるほど笑はれて多少気を悪くしたことではあるが、こんな風に自分が元通りに恢復し、房一の家の縁側に腰を下し、やつて来た人から何やかと話しかけられることに一種のまごつきと期待を現しかけた。だが、小谷には何の反応もなく、その目は又紙衣裳の方へ帰つた。
房一は、犬を制した。ところが感ちがひしたジョンは堤防の方へ大急ぎで走つて行つたが、房一と徳次の二人がそのまゝ河原にしやがみこんだのを見ると、又一目散に戻つて来、まはりの草の中を嗅いで見、二人を眺め、一向に動きさうもないと知ると、石ころの上に腹を着けて長い舌を出した。が、急に尻尾を振つた。二人が彼の方を向いたからである。
「あなたの追鮎は元気らしいなあ」
さう声をかけながら、練吉は近眼鏡の下から切れ目をぱちぱちさせ、気安げに、眠つている道平の顔の上にのぞいた。
徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つていた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せていなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実は巨おほきな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木は薙なぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然に確しつかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点しみができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしている苔こけのついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。
今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつているのを感じた。それはまだ形ができてはいなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつていなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。