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それは正文にかゝりつけの患家だつた。
かうして、予定の時刻を大分遅れて小学校の校庭に辿りついた時には、腹は空くし全く放々の態であつた。が、遅れたのはその一隊ばかりでなく、所々で踊りを見せながら山車だしを引つ張つて来る組も、他にも大分遅れる組があつた。で、彼等は気をとりなほして万歳を三唱し、直ぐに思ひ思ひの所に散らばつて焚出たきだしの握飯をほゝばつた。もうこゝは町内であるから、たくさんの見物人が集つて来ていたが、午前の一歩きですつかりへこたれ、埃で顔が黒くなり、疲れた彼等は、そのおかげでもう照臭さも何もなかつた。
男は力なげに口をあけていた。
だが、さういふことは練吉は今まで考へたことがなかつた。その必要もなかつた。それは単に一つの習慣、彼自身のと云ふより、河原町に張りわたされているあの根深い習慣のおかげだつた。
そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。
私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
この時ふと、房一は、何故こんなに相沢が立入つて訊くのか、といふ疑ひを持つた。だが知り合ふとすぐまるで親類か何かのやうに世話を焼きたがる河原町の人達の癖は、房一も家の造作のときにも、その後にも一再ならず見て知つていた。
だが、それがこの土地には縁がなく、遠い四国のことだと知ると同時に、彼の興味は消えてしまつた。彼は又、「あん」と小莫迦にした風に頭を下げて、わきへ行つてしまひかねない時の徳次にもどつていた。そして、今泉も話すべきことはもう話してしまつた。彼は次の聴手を探す必要がある。
「杉倉まで――」
もともと彼は先きの目あてがあつて河船頭になつたのではない。親父がさうで、お前もやれ、と云はれながら、うんと答へたまでである。いや、ろくに返事をしないでなつた。それは徳次にしてみれば、朝になればお陽様が東に出るのと同じ位にあたり前のことだつた。だが、実を云ふと、徳次は生れ落ちるとからと云つていゝほど徹頭徹尾「河育ち」だつたのである。彼は、どの淵にはどんな魚の巣があるかも知つていた。魚の通る路も、その休憩場所も知つていた。鮎の寝床も知つていて、夜河で岩から岩へつたひながら、手づかみする位は造作もないことだつた。夏場になると朝から日暮方まで川につききりなので、大抵の子供も町を中心にして一里位の川の様子はすつかりのみこんでいたが、徳次は早くから親父の船頭を手伝つていたお蔭で、河口まで七八里の間のそれこそ川底まで知りつくしていた。そんな風だから、先の見込があらうとなからうと、彼は河から離れる気はなかつたのである。さういふことを考へる才覚もなかつた。したがつて貧乏だつた。子供はたくさんいた。彼の妻は河より他に稼ぎ場所を知らない夫の代りに、手ごろの畑地を借り受けて百姓仕事を働いた。だが、河から上つているときの徳次は、金があつてもなくても破れ畳の上に悠然とあぐらをかいて、垢だらけの子供を肩にしがみつかせたり足にからませたりしながら酒を飲んだ。
だが、まつすぐに話を進めよう――彼がその話を嫌がつたのは、人によつては精神の分裂を招き易い、あの二重な意識と名づけるべき鋭い意識のバネのせいだつた。読者は房一の幼時から彼の額に現れた一本の深い皺と、彼がしばしば陥る沈思の様子を記憶されているだらう。空想家ではなかつたにもせよ、彼には事態の真底を見抜く直観力があつた。恐らく誰もまだ気づいていないうちに、彼はその人の持ち上げにかゝつた所に迂散臭うさんくさいものを嗅ぎつけた。たとへ思ひがけないはずみで捲きこまれたことだつたにしても、彼は自分の中に一脈の危険さを、彼を生かすのもそれだが亡ほろぼすのもそれだ、といつた風なものを感じていた。それは別にはつきりとしたことではなかつた。が、少くとも彼の意識の穂先には微妙にふれているものだつた。
当時の三百円は大金たいきんだったでしょう。少くとも田舎大工いなかだいくの半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計うでどけいを買ったり、背広せびろを拵こしらえたり、「青ペン」のお松まつと「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢ごうしゃを極きわめ出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛とたん屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋だるまぢゃやです。当時は今ほど東京風にならず、軒のきには糸瓜へちまなども下っていたそうですから、女も皆田舎いなかじみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋すしやに鰻屋うなぎやを兼ねた「お」の字亭のお上かみの話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮ちぢれた、小がらな女だったと言うことです。